むさし(武蔵)」という言葉を冠した地名、行政府名、機関名は非常に多数存在します。

        しかしながら、大部分は大正期以降の命名によるものです。参照表 「むさし」、「むさ」、「むた」地名所在

         本コラムでは、日本古来の歴史書の記述と、関東平野における縄文貝塚分布(所在と

        海抜高度)を分析して得た、縄文時代以降の関東平野の隆起状況の推察と現時点での

        地勢の対比により得た古地勢の情報や徳川家康公による関東平野の河川の付け替え

        などの情報を援用し、「原武蔵国の所在」の推定とその「命名の由来」の考察結果を

        紹介するものです。     専門家向けの論文ですがご一読を。

                            日本語語源研究会誌46巻に掲載されています。       TopPageに戻る。

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題名:地名 武蔵国の「むさし」の由来の考察
                                               大 坪  城
 地名「武蔵国」は530年代に「武蔵国造の乱」で歴史資料に登場した。古くから用いられている名称で
あるが、その由来については殆どこれと言った解説がない。多くは「不明」としている。
当然、歴代の識見豊富な学者先生方が諸資料を精読し、解明を心がけてきたものと思う。このことは文献史
料のみの分析では解明が困難なことを意味している。
 本稿では「古くからの地名と言うものは多くの場合その地域の地勢、地形、植生などの特徴をあらわす言
葉に由来する」という考えに立ち、「むさし」の由来についての推論、検証を下記のように進める。
第一に、「武蔵国」の「むさし」はいずれの土地が原点であったかを推定する。
第二に、其の地域の「国造の乱」の時代の地勢、「原武蔵の地勢」を推定する。
第三に、現存する「むさし」ないし「むさ」などの地名の土地についてその地勢上の特徴、共通性を把
握するとともに、言葉「むさし」の語要素とその組み合わせを考察し、「むさし」地名の由来
を推察する。
最後に、「原武蔵の地勢」の情報と照らし合わせ「むさし」地名発祥の由来を推察する。
 
なお、本稿の目的ではないが、今回推定、作成した図「原武蔵と地勢」により、
a)広大な内海、仮称「埼玉の内海」の存在
b)その岸辺に存在する「埼玉の津」とおもわれる地名の存在
c)下総への主ルートが当時江戸を通らなかった遠因
などが浮かび上がってきたのであわせて紹介したい。
 
1)原「武蔵」の所在地の推定
「武蔵国」にかんして、下記のような経緯があった。(年代は特記なき場合は「西暦年」)
武蔵国国造の乱が初見である。この武蔵を「原武蔵」と称する。
a) 雄略天皇期:稲荷山古墳出土鉄剣銘文(比定471年)
b) 安閑紀:  武蔵国造の乱(比定534年)
c) 646年:  武蔵国、東山道属、十九郡
d)   :  武蔵国、二十一郡
e) 686年:  現府中に国府設置
) 741年:  国分寺令(大宝律令)
g) 768年:  武蔵国、東海道属(延喜式)
現在、「武蔵府中」ないし「国分寺」は東京都の多摩川北岸にある。このためにか、「乱」の際の「武蔵」
はここを本拠地としていた事を前提にした論や解説が多く認められる。しかしながら上述の史料を概括
するに 「当初の「武蔵」の本拠地は埼玉県の北部に位置し、上野国とは隣接していた」ことが判る。
以下にその論拠を述べる。すなわち、
A) 「武蔵国造」の時代には、中央でも「武蔵」の名は確立していた。
B) 「国造の乱」の一方の雄「小杵」が「上野国」と共謀を図った、との記述を考えるに「武蔵国」は
上野国と地理上も、交流上も近い関係にあったと考えられる。
C)乱の両者の姓は共通で、「笠原」であるが、現在の行田市(旧名「(おし)」)南方に笠原
ある。
D) 当初「武蔵国」が東山道属であったということは、中央(奈良地方)との交通上その方が便利であ
ったからと考えるのが素直である。東海道属になったのは現武蔵府中に国府が置かれた80年後である。
E) 延喜式で東海道属に変更になったいきさつについての続日本紀の記述によると
「・・上野国邑楽郡より五ヶ駅を経て武蔵国に至り(原文「従上野国邑楽郡経五ヶ駅到武蔵国」)、事
畢りて去る日、又同道を取りて下野国に向かふ。・・・」とある。五ヶ駅を5ヶの駅と読む向きもあ
るが、その直後に「その間四駅・・」という記述あるように、5ヶの駅なら「五駅」と書くのが当時
の記述方式と考えるべきである。五ヶ駅の所在は未確定であるが、邑楽郡には上五箇、下五箇
なる字地名が現存することより、郡邑、館林付近に在った駅のことと考えられる。
また、「武蔵国にいたる」を「府中にいたる」と読み替えが行われている例が見うけられる。現代
のいいまわしの例に照らしても、この場合、郡界ないし国境にいたることを意味しているように、
「武蔵との国境に至る」と解釈するのが素直である。「上野国」とは国境を接していたことになる。
F) 上記地域に付帯するように、荒川北岸には広大な平坦地があり、明治になる以前から、「武蔵野
と呼ばれてきた。現代は水田地帯であるが明治初頭までは畑、桑畑に囲まれた土地であった。
        東伍書の「武蔵野」に関する記事の説明に引用した文献のなかの記述では、「武蔵野の初るとこ
ろは鎌倉より五六里(鎌倉〜武蔵野の直線距離略100Km、旅程150Km:筆者注)」、「蓑田(鴻
巣西北西:筆者注)というところにて武蔵野を分け侍」、「鉢形(寄居の東南東:筆者注)を立て、
須賀谷松山の西:筆者注)と言うところに逗留す」などがある。引用記事の「武蔵野」はこの「武
蔵野」を中心とした地域に符号する。(「図 1 武蔵と周辺の地勢」に関連地を表示) なお、「蓑田
は「あたち(台地)」の北端に位置し、名前が示すよおうに、低湿地である。この先、東側は大小
河川の発達した、現水田地帯である。
    「むさしの」は「むさし」に付帯する草原様地を意味する。このことからも「むさし」はこの
「武蔵野」近接地であったと考えられる。
G) 行田市の所在する埼玉(さきたま)には稲荷山古墳を代表とする巨大な古墳群がある。出土鉄剣銘
より「国造の乱」より古い時代から一大勢力が存在し、中央と強い関係を築いていたことを示す。 
 
これらのことを総合的に考えると 次のように結論付けられる。
「原武蔵は利根川と荒川に挟まれた領域に在り、忍(現行田市)付近を其の中心としていた
 
この結論に対する疑念はなぜ武蔵国分寺や府中が現在の地に設置されたのかということである。
別途機会を見て報告するが、「使主」が献上した四つの屯倉の一つである「多氷(たひ)」がその地であり、
後に、中央政権が「国府」を設置する時にこの屯倉地を選んだと思われる。当地は台地「たま」の南端の
高度75mの南側の急斜面(通称「はけ」)を下った所にある、多摩川河岸段丘上の平坦部(海抜高さ60
m)にあり、多摩川と野川に挟まれた平坦地である。「たま」に比べ、湧水に恵まれ、生活に必要な水を
得やすい。
たひ」は台地を意味する「ま(多麻)」の縁の狭隘地「ひ」を意味する。近接地名に「ひの(日野)
」があるが同系名称である。現在では「たひ」地名は残っていない。行政地名「府中」に変わったとかん
がえられる。「国府」が設置された後、「武蔵国」は東海道属になった。中央政府の影響範囲が拡大した8
世紀央以降の開拓地である。
 
2)原武蔵の地勢
それでは原武蔵(「国造の乱」の時代の武蔵地)の地勢はどうなっていたのか。
原武蔵の地勢を推定するには、この地域の現在の地勢の特徴を理解しておく必要がある。
現在と原武蔵の時代の間には自然並びに人工的な変動、改変があったはずなのでこれを知る必要がある。
これらを把握し総合すれば原武蔵の地勢を推定できる。
現時点での地勢上の特徴
「図1 武蔵と周辺の地勢」に当地域の概略を示す。本図には 後述の事項に関連するので、‥豕
湾奥部の等高線(0m、5m、10m)⊆舁彝塚の分布や主要河川流を記してある。現在でも、海
抜0m以下の土地が広がっていることが分かる。
その特徴は以下の通り
a) 西は秩父と伊豆箱根の山塊、北は榛名、赤城、日光の山塊、東は筑波の山塊に囲まれ、それぞれの
山塊を中心とした円弧状の地殻皺が発達し、その低地や高みがそれぞれ河流や陸橋を構成している。
それぞれの交差部は河川では河口状狭隘部、もしくは大小の湖沼を生んでいる。陸橋部では半島な
いし島状地を生じている。「あたち(足立)」台地もその一つであろう。
  b)東南部の下総台地や西南部の多摩台地、足立台地(上尾台地)は太平洋側が高く、内陸側が低い。
河川流路にそれが顕著である。太平洋プレートの活動の影響と思われる。
c)上記の地勢に囲まれ、古河を中心とした地域は低湿地が優勢であり、「赤麻沼(現、渡良瀬遊水地)」
板倉沼」、「たたら沼」を代表とする湖沼群が発達している。
     d)中央部に「あたちの台地(現上尾台地)を持ち、その周辺は低湿地が発達している。
     e貝塚遺跡が多数存在し、武蔵の深部である白岡付近まで所在が確認されている。
    
  一方、古地勢を推察する場合、現代の地勢に対し下記の変動があったことを考えねばならない。
 地勢変動
    地勢の変動には、地殻変動によるものと人工改変によるものがある。
a)地殻変動による隆起、沈降と海岸線の変動
これに関連しては考古学会、地理学会を中心とした様々の論文がある。
本論では、千葉県、東京都、埼玉県の縄文期貝塚の所在と高度の関係を調べ、隆起状況を推量した
結果を用いる。(貝塚はおおむね5000年前のものとされているものを取り上げている。)
関東地方は千葉県を筆頭に、東京湾沿いから、埼玉県の深奥部まで貝塚が広く、多数分布している。
これらの貝塚の位置と高度を、九十九里海岸の八日市場市(現、匝瑳市)の貝塚と埼玉県の熊谷を結
ぶ直線上にプロットしたのが「図1」の右肩の付図「貝塚高度(海抜)と基準点の距離」であり、
大略一定傾斜平面上に分布していることがわかる。
結論を言うと、5000年の間に銚子側で最高点(阿玉台貝塚)で50m、白岡付近で12,3m
の一定勾配面をもつ隆起があったと考えられる。(仮称:「関東平野隆起説」)
    この「関東平野隆起説」は下総台地、アタチ台地、タマ台地が内陸側で低くなる地勢や、其の中の
河川流が内陸に向かう傾向をもつことの原因も説明している。縄文海進の解説では「海面が2〜3m
の上昇」とされているが、この地域の海岸線の変動には地殻の隆起のほうが支配的であったことを意
味する。当然であるが、時代が下るにつれて進行した地殻の隆起に伴い、海岸線は後退した。
「武蔵国造の乱」は今から1500年ほど前のことであり、縄文式時代に比べれば地殻の隆起がすす
み、縄文時代よりは海岸線が後退していた。しかしながら、年とともに均一に隆起が進んだと
すると、それでも、現在に比べ三分の二程度を差し引いたレベルの隆起があったと考えられる。こ
れらを勘案すると、当時は、現在の海抜5、6m程度のところに海岸線があったことになる。
すなわち、
あたち台地 と下総台地の間は粕壁(現,春日部)付近まで、多摩台地との間は大宮付近まで
入り江であったことになる。「図1武蔵と周辺の地勢」に併記してある。参照方。ここでは、それ
ぞれ、「東入り江」、「西入り江」と仮称する。
 たま(台地)を流れる多摩川河口付近も同様であり、武蔵小杉付近までは入り江であった。
b) 徳川家康公以降の河流の改変
水田の拡大と洪水の制御を目的とし、大々的な河流の改変が行われた。現在でも古利根川や元荒川
などの河川名で残っているように、主要な物は利根川と荒川の流路付け替えである。すなわち、
利根川は栗橋、関宿の部分で堀川と築堤により現在の利根川流路に変更された。その上流部では酒
巻、新郷付近で主として築堤によりその流路が東方へ変更された。現在の地形より推察するに、
かっての利根川は、主として酒巻、新郷、川俣付近で分流、南下していた。酒巻付近で分流したもの
は行田市の東部を南下し、種足、菖蒲付近をへて、後述の「埼玉の内海」を通り、白岡付近で荒川と
合流、分流し岩槻へと流れていた。新郷の東で分流したものは羽生を巻くように南下、東流し(会い
の川)、川俣付近で分流し羽生の東側を東流した一派と鷲宮上部の川口付近で合流し和戸、杉戸、粕
壁へと流れていた。多数の川筋が発達していたことがわかる。
渡良瀬川、恩川もその新利根川へ合流し銚子側へと落とされた。かっては、古庄内川として、権
現堂川の川筋から権現堂脇をながれ、天神島付近を経由、杉戸の東方を南下していた。
  荒川は熊谷付近で「新川」として落し川により川越方面へと付け替えられた。新荒川は川越付近で入
間川に合流した。「元荒川」は現存し、熊谷南部を通り、笠原、白岡沿いを通り、南下していた。
  多くの落し川(干拓用河川、「見沼用水」、「葛西用水」、「備前堀川」etc.)が開削され,これらによ
り、沼池、低湿地が干拓され 水田となった。仔細に地勢図を調べると周辺に比べ一段と低くなった
広大な土地が到る所に在ることがわかる。ここは、かって湖沼ないし低湿地であったことが推察でき
る。
江戸川」による河川流の付け替えも忘れてはならない。その流路は排水、灌漑を考慮し、一
定の高度と勾配を持たすべく、下総台地に設けた堀川と築堤により構築されている。「ゑど(高みを
意味する)を流れる川」なる所以である。
  これらの河流の改変以前の状況を推察する場合には、河流路の変更に加え、さらに、古利根川や元
荒川がもともと受けていた大流量のことを考慮する必要がある。前述したように、この地は陸皺が「和
戸」や「鷲宮」上部の「川口」、さらに「白岡」など河流狭隘部を多数発生、発達させている。狭隘
部は自然のダム効果を産み、上流部では其の分さらに水面の上昇を起し、上記窪みの面積以上に広大
な湖沼が存在していたことになる。
)「国造の乱」のころの武蔵地勢(原武蔵地勢)
1)項で説明したように、「原武蔵」は「上野国」に隣接した、現行田市付近を中心とした地名
と考えられる。ここでは、当地域を中心に、地勢の推定結果を解説する。
前述の「地殻隆起」と「河川流の付け替え」を中心とした地勢変化を勘案して作成したのが「図2
原武蔵と周辺の地勢である。海岸線については「図1」も参照されたい。
a東京湾は 「あたち」なる中央台地を挟んで、東西二つの入り江があった。0メートル海岸線は、
東側の「東入り江」では粕壁(現春日部)から杉戸の付近まで、西側の「西入り江」では志木ないし
富士見野市付近まで、10km程度の幅で進入していた。湾口最狭部は東京上野と千葉市市川を結ぶ
ところで、幅12km程度であった。
当時、東海道は、相模より上総へ至り、走水より富津への海上ルートが用いられていた。この場
所は幅7km程度で、比較的狭かったことと、河流の変動を受けにくかった事情によると思われ
る。後世、海岸線が更に後退した結果、および、武蔵国の国府が現在の武蔵府中に置かれたこと
も受け768年に至り主道が豊島経由下総にいたるルートへ付け替えられたと思われる。
なお、東伍書では「南埼玉郡」の項で「和戸井沼より東南には曾って古の郷名のこれるものなし
としている。これは、杉戸以南には中央入り江が進入していたために、村落などの発達が遅れた
ことが原因していると考えられる。
b)多摩川河口付近は武蔵小杉まで、鶴見川沿いは佐江戸付近まで、奥深く入り江が発達しており、今
の川崎をへる東海道は安定的な交通路とはなりえなかったと思われる。東海道が武蔵小杉経由大井へ
のルートが永く用いられた原因であろう。
c) 中央台地「あたち」の東側では主要河川である利根川、荒川、渡良瀬川の流入があり、それに加え
て、多くの湖沼や湿原が発達していた。前述のように、太平洋プレートによる地殻隆起と秩父山塊な
ど周辺山塊の造山活動による円弧上地殻皺による。周辺より低くなっているところは湖沼ないし
 低湿地、高い所は陸橋ないし居住エリアになっている。
  特に、「北埼玉」から「南埼玉」にかけては河川、湖沼、これらと関連した低湿地が複雑に入り込
んでいた事が分かる。「埼玉」の原意は「さきつま(裂津間)」なのではないかと思えるくらいであ
る。
東入江へは荒川や利根川の一派が流れ込んでいたが、行程40Kmで落差10mないし15m。
これらの湖沼群やとうとうと流れる主要河川は低勾配で、船運には非常に好都合であったと思われ
る。「津」はじめ船運に係わる地名が多数認められるのも其の証左と考えられる。
湖沼には面積の広いものが多数認められる。とりわけ、「栗橋」、「久喜」、「白岡」を結ぶ「東北
本線」より西側には「久喜」を取り巻くように、最も広い海、仮称「埼玉の入海」が広がっていた
推察できる。当地は周辺より一段と低く、窪地となっていた場所で、後に河床の低下や灌漑水路によ
り水田となったと思われる。
入海沿いには「篠津」が現存する。当地は「埼玉郡」にあること、地勢的にも湖沼や元荒川、古利
根川の支脈に接し、囲まれていたこと、郡邑「おし(忍)」に関連する「し」名称などよりここが
「埼玉の津」であったのではないかと推察される。案ずるに、「し」の国の津が「篠津」であり、「お
し」は「「し」を治める」事に対する命名でなかったのか。さらに、「笠原」とは水路隣接していた。
    
この地勢図は 原武蔵は 「忍」を中心とする「湖沼、河川の入り組んだところ」 を特徴とする
土地であったことを示している。
 
「むさし」ないし「むさ」地名地の地勢上の特徴と「むさし」の由来
   多摩地区周辺では、他地域に存在する同一地名と識別する際に、新開発地に「武蔵」を着けた例が多
くみられる。特に駅名、行政区画名に多数認められる。そこで明治初頭以前より存在するむさし
の所在を調べた。結果は表「むさし」、「むさ」、「むた地名所在」に示す
北は秋田県から南は大分県、福岡県まで認められる。「むさ」ないし「むざ」地名も茨城県から沖縄に
亘り認められる。現在多数認められる多摩並びに周辺の武蔵を冠した地名は明治以降の命名であること
がわかる。
日本中に広く認められる地名であることなどを考えるに、「むさし」は地勢、地形を意味する言葉
原点と考えられる。上述の表の記述に示されるように、これらの地勢上の共通点は「大小河川やそれ
に伴う湖沼、池などを持つこと」である。「むた」地名も多数存在するが、同様の地勢である。
また、上表に掲げたように、「むさし」の派生語として、岡、芝、嶋、野を受けた地名が在る。これ
らはいずれも「むさし」と隣接する場所の地勢を意味する名称となっている。ちなみに「武蔵野」は
「むさし」の後背地の台地上の野。「武蔵嶋」、「武蔵芝」は「むさし」の中の小さな高台である。
   参考に、東京町田市郊外の「武蔵が岡」、福岡県筑紫野市の「湯の町」郊外の「武蔵」、奈良県の現「春
日野」のかっては「武蔵野」と言われていた土地についてその地勢状況を「図3 武蔵地名地の地勢例
に示す。いずれも多数の河川が集まる土地に隣接していることが分かる。
 
結論から言うなれば、「むさしは動詞形むさすの名詞形であり、
  「むさし」は「大小河川、湖沼などの入込んだ土地」を意味すると考えられる。
  語彙要素とその概念は次の通りである。
   「」:水を意味する。「み」の変形または原型。(参照:「身狭」→「見瀬」)
「むす(蒸す)」の「む」も、「むた(牟田)」の「む」も同根。
    湿地地域名に「むし」を基幹とするする地名が多いのも同根と思われる。
      「高虫」、「下武士」、「虫明」、「虫生」etc
さす」:二つの異なるものが層状に、交互に入り組んだ状況をいみする。
      「よく脂の差し込んだ肉」、「雲間より日が差す」など。
      類似地名に「むさし」の東側に「さしま」があるのも同じ由縁と思われる。  
 
4)結論
 A)むさしの原点は 利根川と荒川に挟まれた、忍(現行田市)を中心とする地域であった。
「武蔵野」、「武蔵嶋」などが近接している。
 B)むさしの由来は、大小河川、湖沼に囲まれた当時の地勢状況を反映した名称。
わが国はむ、さすところでございます」という自己紹介が命名の原点。
5)考察
考えるに、
A)地名は後世行政的につけられたものは別として、縄文期以降の地勢名である可能性が濃厚
である。古地勢を考えたうえでの推察が重要であろう。
B)今回の調査の過程で様々な地名に接したが、古地名には共通した概念が隠されているように思える。
様々な漢字が当てられているが、漢字解釈を離れ原義を推察することにより妥当な解釈が可能とな
り、さらに日本語の語彙の概念、哲学が見えてくるように思う。
「たかみ」を意味する言葉は「た」であり、「たこ」「たち」「たま」などがある。
「たちはな」は「たち」の「はし」を意味する言葉なのではないか。
 今後更に分析、解明を試みたい。
 
以上。                        (2007年6月研究会にて)
「主たる参照文献」 
 1)大日本地名辞書全巻         吉田東伍 富山房
 2)東京、第一師管武蔵国(1/20万) 陸地測量部(明治二十一年発行)
   ほか、宇都宮、佐倉、水戸
3)明治初頭迅測図(1/2万)     参謀本部測量課(明治16年測図)
   埼玉見武蔵国南埼玉郡ほか。
4)地図閲覧サービス          国土地理院
5)考古学による日本の歴史       雄山閣出版
 
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